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【第3回】左腕坊主インタビュー(全7回)

[ インタビュー ]
自分の長所を分かってもらうのは言葉よりも映像。
―― そう思って協力者を独力で探し、DVDを送った。
ヨーロッパのプロリーグを目指すために、どのようなことをしたのですか?
最後のシーズンは個人的に調子が良かったので、良かったプレーを自分でDVD編集して、エストニアでプレーしている吉田耕平(元チームメイト)に送ったんですよね。そうしたら、日本でプレー経験のある彼のチームメイトのブルーノ(元湧永製薬)が僕の映像を見て「この選手だったらヨーロッパでもやれるんじゃないか」って、まぁ、お世辞半分かもしれないけど言ったっていうのをメールで彼が教えてくれた。

それで、「ああ本当にやれるんかなぁ」って、少しずつ思うようになって、レギュラーシーズンと並行しながら、ドイツとスウェーデンとエストニアと知り合いを辿って、そのチームの方にDVDを送ってもらったんです。

まったくの赤の他人みたいな人にもメールとスカイプで「僕はこういう思いで挑戦したいんだ」って伝えていきました。シーズンが終わって本田技研熊本には「ホンダ熊本の事は大好きだし、このチームで成長させてもらったので感謝していますが、僕はほかのチームへ移ろうと思います。」という話をさせてもらいました。

とは言ってもまだホンダの社員なので、ゴールデン・ウィークと有休をありったけ使わせてもらって、自分に興味持ってくれてたチームに、エストニアとスウェーデンとドイツに、練習参加させてもらったり、トライアウトを受けに行ったんですよ。

海外にDVD送られたり、実際に行かれたりするときは、言葉の壁や意識の違いがあったと思いますが、そこをどうやって乗り越えたのでしょうか?
言葉の壁は正直、結局乗り越えられてはいないとは思うんですけど、でも最初は片言の英語だけだし。そのときは、代理人も別にいないし、こうやったら海外のプロでやれるっていう教科書もありませんし。

ただがむしゃらに動いて、自分のいいところを分かってもらうのは言葉よりも映像やと思って、直接見せるのが早いやろうと思って行ったりとか。本当に、無鉄砲やったから行けたのかなと。

極端な話ですが、英語がまったくしゃべれない状態でも、行けたと思いますか?
プレーするだけなら、別に行けるとは思いますけど、結局いちばん困るのは契約やビザなんです。結果的にピルナと契約してドイツでプレーしましたが、出された契約書は、英語じゃなくてドイツ語なんですよね。だから今思えば、プロとしてやるのであれば、ちゃんと代理人を伴って行った方が絶対いいと思います。でも、日本人の誰が代理人をやってくれるのかも、どこにそういう連絡したらいいのかも、当時は分かりませんでした。
契約書はどうやって読んだのでしょうか?
1回目、ドイツの2部のアウェから契約書が来ました。たしか英語表記だった気がします。金額も書いてあって、それは通訳の方に訳してもらって、「これぐらいもらえるよ」という感じで理解しました。

でも結局、出発4日前にそのチームとは契約破談になったんですよ。メインのスポンサーが下りたから来るなという感じで。職場には退職願いを出しているし、航空チケットも取ったし、お世話になった人みんなに挨拶してたのに「これからどうすんねん?」と。

でも、連絡しても向こうは夏のバカンスに入ってるので連絡取れないし。もう「自分でまた行くしかないわ」と思って片道切符もう1回買ったときに、ドイツの当時4部のピルナというチームが、「興味を持ってる」という連絡が入りました。

契約破談のあと、どうされたのでしょうか?
すぐにプレーを見せに行ったんです。「日本の1部でやってたのにドイツの4部って……」って、最初行く前は思いましたが、行ったら僕より大きい選手ばっかりやし、本当にブンデスリーガ(ドイツリーグ1部)目指していくっていう意気込みも感じたし、ピルナにはチェコ人とか、セルビア人とか、ナショナル経験ある選手とかもたくさんいたんですよ。

監督に「おれはこういうハンドボールがしたいんだ」みたいなことを片言の英語で話したら、ドイツ人なんですけど、何か浪花節な感じの監督で、そのフィーリングも良くて、練習に2週間ぐらい参加したらドイツ語の契約書が出てきた。

当時僕はドイツ語しゃべれなかったので、片言の英語がしゃべれるチェコ人が助けてくれました。「これぐらいもらえるから大丈夫。サインしていい。いい契約だと思う」と言ったのを信じてサインしました。もし彼が僕に嘘ついてたら、大変なことになってますけどね(笑)。

入団したチームは、櫛田さんのことを何で知ったのでしょうか。
僕がDVDを送ったわけじゃないんですよね。女子球界の第一人者の田中美音子さんからの紹介でノルウェーで当時ハンドボールのコーチ留学をしていて、今筑波大の女子の監督をしてる山田永子さんがDVDをいろんなところに配ってくれたり、ドイツのチームを探すのを助けてくれました。僕が分からないところで、いろんな人が向こうで動いてくれていました。
人と人とのつながりを経て、入団につながったということでしょうか。
そうですね。海外でプレーやコーチをしている人を日本で教えてもらって、連絡先を聞いて、そこに行ってみて、その人が自分のチームや他のチームの事情を教えてくれてアドバイスしてくれます。きちんとしたネットワークが構築されているわけではないです。

スウェーデンの場合、当時はおそらくハンドボールの日本人プレーヤーやコーチがいませんでした。でも、スポーツ雑誌『Number』に日産の卓球部を辞めて、スウェーデンに行っている石田大輔選手の記事が載ってて、サイトがあったので、そこにアクセスして、「ハンドボールしたいんや」って実名入りのメッセージを送ったら石田選手から連絡いただきました。

向こうはクラブチームなので、卓球もあれば、ハンドもあるじゃないですか。「DVD送ってくれたら、僕が住んでる周囲のハンドボールのチームに配りますよ」って言ってくれたんです。

石田選手にはとてもお世話になりました。スウェーデンで石田選手と初めて会って、「じゃあ明日ここのチーム行こうか」とか、「今度このチーム行こうか」という感じで。スウェーデンを回りきった後は、石田選手と離れてドイツに入りました。



24回目の引っ越しだったり、初めての試合中止だったり…

[ 日々 ]

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9月に入って日本リーグが開幕して、気づけばもう9月も2/3が過ぎ去りました。本当に早い…。週末は試合、平日は仕事&トレーニングというサイクルで一週間あっという間に過ぎていきます。

初案件を抱えていた福井&富山での仕事が無事終わったと思ったら、今度は人生24回目の引っ越し…。そして、台風18号の影響で人生初の公式戦の中止を経験…。

9月序盤&中盤はドタバタしてましたが、引っ越しも一段落しました。いよいよ今週末は大事な2連戦、トヨタ紡織九州&琉球コラソン戦です。

今シーズン3試合しか無い福井でのホームゲーム。何とか勝ちたいね。会場一杯になるとええねぇ。

9/21(土) 福井 北陸電力福井体育館フレア
15:00~ 北陸電力×トヨタ紡織九州

9/22(日) 岐阜 飛騨高山ビッグアリーナ
13:00~ 北陸電力×琉球コラソン

そうそう、この写真の右側のベンチやけど、赤塚(北電)、富田(トヨタ車体)、仲井(元デュッセルドルフ)などなど日本リーガー&ブンデスリーガーが横になって、眠って、寝癖をつけていった、由緒正しきベンチです。(他にもいたかもしれへんけど、忘れた…。)

当然、僕も普段から横になっています。みんなにハゲが伝染しても僕は知らん。



さばスポ 9月1発目!!!

[ さばスポ ]

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どーも櫛田です。今日は自分のトレーニングを終えて、Jr.チームのみんなと一緒にハンドボールやってきました。さばスポのアスリート派遣事業です。

昨日はチームメイトのGK廣瀬&ルーキー池上も駆けつけてくれました。

ステップワーク&ボールハンドリングのコンビネーションドリルを競争しながらやったり、二人一組でやったりとみんな夢中で頑張っていました。

最後の試合は15分やっても同点、4分の延長戦でも同点と白熱してましたなぁ。みんな勝負にこだわりまくって、必死でボールを追いかけていましたよ。

「クッシーコーチ、あと1分だけ、再延長したいーーー。お願いします!!!」

「お願い、お願い、あと30秒はだめ???」

とかいうて、3年生のみんなホンマに必死。

「来週もくるから、また来週しようぜ。なっ!!!」

「おおおっ。じゃあ、来週もねっ!!!」

ってな感じで一件落着。最後にみんなでコートに一礼して、モップを掛けて無事終了!!!



【第2回】左腕坊主インタビュー(全7回)

[ インタビュー ]
エストニアでプロとして活躍してきた吉田耕平の姿を
純粋に「男としてかっこええなぁ」と思った。
大学卒業後はどうされたのですか。
大学時代は、社会人でも続けられるなんて思ってなかったので、普通に就職活動して、内定もいくつかもらってましたね。でも、その4年生の夏に西日本インカレの決勝まで行って、優秀選手賞を取った時に、日本リーグの数チームが興味を持ってくれたみたいです。そのあたりから、ハンドボールを続けていきたいなって考えるようになりました。

でも、同期15人のうち、大学卒業時に日本リーグへ行けたのは僕だけでした。(後に大学同期の長谷川聖はトヨタ車体で活躍していますが。)日本リーグ全体としても、僕らの代で日本リーグに行ったのはたぶん全国で5、6人ぐらいしかいなかった。だから、本当に狭き門やったと思うんですよ。

4年生の時は、同級生の中で一番上手い選手だったのですか。
いや、そんなことはないです。同期に全国屈指のコントロールタワーがいて、彼が作ってくれたチャンスを点にしていた。だから、得点自体はチームでいちばん番多いとは思うんですけど……でも、レギュラーになり出した春先の頃はたぶん足引っ張ってばっかりやったんで。

そんな中、蒲生監督が「日本リーグのチームから話があるけど、どうする?」って聞いてくれて。どこが強いとか当時は全然知らなかったんで、「本田技研鈴鹿でお世話になります」と答えました。

本田技研に入社された時の環境はいかがでしたか?
チームは僕が入った時に6年連続日本一を達成中でほとんどが全日本メンバーだったし、世界選手権での優勝、ブンデスリーグ得点王の経験があるフランス代表のストックランも助っ人でいましたしね。当時ベンチに入れたのは14人かな。本田技研鈴鹿のベンチに入るってことは、サッカーで例えるなら、全日本代表メンバーがメインのチームの一員になるようなものだったんです。

しかも僕、世界トップのストックランと、ポジションが同じだったんです。全日本の同じポジションのレギュラー格の人がストックランの控えとしていて、僕はさらにその人の下。

大学1年の時は「頑張ったらいつか絶対レギュラーになれるわ」とか「選手としての伸びしろは絶対に負けへんわ」って、まあ下手くそなんですけど、努力さえすれば絶対試合には出れるって思えたんですね。でも、本田技研鈴鹿のときは、自分がストックランを乗り越えてレギュラーを取れるなんてイメージは、なかなか現実のものとして思い描けなかったですね。ストックランをサッカーで例えるなら、メッシやC・ロナウド、ジダン、ネイマールみたいな存在です。その世界的な名手とポジションが同じ…。今考えると、自分で無理だと思う時点で可能性をなくしていたんだと反省していますが、それこそあり得ない話なんですけど、一日24時間以上練習したとしてもストックランに勝てるとは思えなかったです。

部員が20人ほどいて、その中で14人がベンチに入れる。自分は、下位チームとの対戦のときは使ってもらえたりするんですけど、日本一を懸けた試合なんかはベンチ入れずに、応援席で先頭になって太鼓叩いたりしてました。それでも毎日、世界一の選手とポジション争いをしていると言う事は、世界一の経験が毎日できるって気持ちをシフトしてトレーニングに励んでいました。

本田技研鈴鹿では結局レギュラーを取ることはできなかったんですよ。そして、4シーズン目に本田技研熊本に移籍して。同じ会社なので社内人事的には異動なんですけど、でもライバルチームに移ったんです。そこからチームのレギュラーとして日本リーグの試合にコンスタントに出られるようになりました。

その後はどうされたのですか?
本田技研熊本で1シーズンやった後にチームの方針が変わり、「今後は大卒のルーキーは採りませんよ」ということになってしまった。ほかのチームに移籍したりで、主力がゴッソリ抜けたんですよ。僕は「強化選手で呼んでもらったのに、ここですぐ抜けるのは不義理やな」とか、自分勝手に責任を背負いこんで「おれは残って続ける」って思ってやってました。

でも、3シーズン目のときに、もういよいよ「このチームにこれ以上おったらあかん。今期で最後にしよう。」って自分で決めて、個人でしっかり結果残そうという覚悟でシーズンに臨みました。

精神的にはしんどかったんですけど、個人の成績に限っては、その本田技研鈴鹿での3シーズン、本田技研熊本での2シーズンの合計5シーズンの総得点よりも、ラスト1シーズンの方が得点を取れたんですよ、69得点、全試合得点しましたね。

チームは全然勝てなかったんですけど、気持ちをシフトして、どんだけ点差が離れて負けていても、ここで1点、2点を取ることが来年自分がどこかでやれるかどうかにかかってくると思って。それに、やっぱり熊本が好きだったし、応援してくれてた人にはやっぱり活躍してるところを見てもらいたかったんで、そういう思いで最後の1年はやってました。

本田技研熊本を辞めてから、どのようなことを考えていましたか?
まず先に思ったのは、古巣の本田技研鈴鹿に帰りたかったんですよ。それに、やっぱり世界のホンダっていう企業を辞めるのは、常識的に考えてナンセンスじゃないですか。

もう1つの選択肢は、当時日本リーグ王者のチームで、しかもソウルオリンピックでメダルを取った素晴らしい韓国人監督が率いていたんですけど、その監督がシーズン中から「うちへ来い」ってよく声をかけてくれていたんですよ。

最後の選択肢は、海外に行くこと。以前、本田技研熊本で一緒にプレーしていた吉田耕平が、エストニアに行ったんです。彼がオフのときに日本に帰って来て会った時に、プレーヤーとしてはもちろん、人としても「こんなに日本出たら差つくんか!」っていうくらい成長していた。歳は僕の1個下なんですけど、純粋にやっぱり「男としてかっこええなぁ」ってすごく思って。

「かっこええなぁ」と、どのようなところを見て感じたのですか?
「日本を出たからこそ、より日本のことが好きになった」とか「日本人として大切にしたい考え方がわかった」とか、そういうことですね。それに、僕らは会社に所属する形でプレーしてましたけど、彼はもう向こうでプロでやってたので、家族の生活をかけてやってる姿はかっこいいなと思いました。

そういうのを見て、「こんなぬるま湯でやってたらあかんわ」っていうのを、当時は20代後半でしたけど、僕はすごく感じましたね。そのときに初めて「ハンドボールでメシ食ってみたい。自分がどこまでやれるかヨーロッパで挑戦したい」と思ったんです。



「ミズノ ウエーブ ステルス 2 ビクトリアブルー 2013」

[ パートナー ]

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昨日の開幕戦でもはいていたミズノのハンドボールシューズです。

ここ数年、ヒュンメルの天然レザーのシューズをメインシューズにしてきたけど、廃盤みたいで手に入りに憎くくなっとりました。

困ったなと思っていたらmelisさんがこのシューズをピンポイントで教えてくださいました。

僕は、実際にしばらく自分で使ってみて調子がいいものしか、ここに載せません。頑固者でございます。

約1ヶ月程はいてみましたが、かなりいい感じです。軽いです。ランニングシューズをはいている感覚に近いです。

どことなく、ブルーサンダーのチームカラーっぽいしかなり気に入っています。

melisさん、ありがとうございました!!!



大同フェニックス戦

[ 2013/2014 シーズン(北陸電力BT) ]

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日本リーグ開幕戦を終えて、福井に戻ってきました。

北電 18(6-12 12-22)34 大同

20点〜25点のロースコア勝負に持ち込もう、とにかく前半をリードで折り返そうと開幕戦に臨みました。

前半のスタートから、韓国人エースにマンマークを付けるなど、なんとか食らいついていこうとしました。

前半は得点こそ伸びませんでしたが、失点を抑えてハームタイムを迎えました。

しかし後半の序盤に最も警戒していた走り回られる展開に持ち込まれてしまい、一気に勝負を決められてしまいました。

後半だけで22失点…

これからも厳しい闘いが続くと思いますが、明日から、湧永戦、紡織戦、コラソン戦に向けて準備しなおします。

一週間で3試合あるからね。勝負所です。



いよいよ明日開幕!!!

[ 2013/2014 シーズン(北陸電力BT) ]

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いよいよ日本リーグ開幕が近づいてきた。

日中は、湧永vsトヨタ自動車東日本戦をネット観戦していた。

東日本は前半の9点ビハインドを、追いついての同点劇。後半終盤には一時、逆転していた。

豊田合成も前半は大崎にリードしていた。意地の7人攻撃もみせていたようだ。

明日、15時15分から枇杷島スポーツセンターで王者・大同フェニックスとの開幕戦。

皆さん、応援よろしくお願いします。

写真はドイツ時代の同じく開幕前の一枚。



【第1回】左腕坊主インタビュー(全7回)

[ インタビュー ]
「おれが求めてるのは、何かを真剣にやることなんやな」
―― 高校時代、友人の姿を見て初めて気づかされた。
まず、ハンドボールを始めた経緯を教えていただけますか。
中学校のときは野球部だったんですけれども、体育の授業でハンドボールがあったんですよ。そのときの体育の先生が、大阪体育大学出身で、ハンドボールのインカレでベスト7、優勝経験もある方で、先生が「おまえハンドボール部入れよ」って誘ってくれてて。

ただ、当時は先生の実績も知らないし、途中で野球部をやめるのも嫌だったし、先生の誘いは断り続けていました。高校に入るにあたって、野球を続けるか、新しいことをやるかって考えたときに、ハンドボールやってみようかなと思って。

高校の部活は、どのような雰囲気でしたか。
高校は、顧問の先生が形だけいるような感じの愛好会みたいな部でしたね。みんなでバーベキュー行ったり、カラオケ行ったり……。で、大会近くなったらちょっと練習して、ぐらいの、そういうノリのチームでした。チームメイトとはすごく仲良くて、今でもたまに連絡をとったりしています。

ただ僕は、小・中と野球を真剣にやってきたので、「うーん、なんかちょっと違うな」っていうのはありました。こういう楽しさを、おれは求めてるわけじゃないんだって。

そんな思いを抱きながら部活を続けてて、ある時小学生時代からの友達から電話もらったんです。「高校サッカーの冬の選手権でテレビに出るから見てくれよ」って。そいつは運動神経が抜群に良くて、サッカーがめちゃくちゃ上手い奴でした。

でも、テレビに映ったそいつは、プレーヤーとして映ったんじゃなくて、応援席で顔にペイントする姿だったんです。それってレギュラーになれなかったってことだから、決してかっこ良くはないじゃないですか。でも、そいつの毎年の年賀状には「何がなんでもやめへん」とか「続けようと思う」とか「レギュラーにはなれなかったけどもやって良かった」みたいなことが書いてあったんです。

「ああ、おれが求めてるのは、こうして何かを真剣にやることなんやな」っていうことに気づいた。だから、大学に行ったらもう1回何かに打ち込もうと思ったんです。大学は一般受験で入って……、だから競技スポーツとしてハンドボールを本格的にやり出したと言えるのは大学からですね。

入学した中部大学はハンドボールの強豪校ですよね。最初は苦労されませんでしたか?
そうですね。インカレには当時でも20年以上、今では30年以上ずっと出てるし、東海リーグの優勝を争うチームではありましたね。全国で言うと、ベスト16?ベスト8くらいのチームだったと思います。

僕以外はハンドボールの推薦で中部大に入ってるんですよ。インターハイに出てたり、インターハイで得点王だったり……部員約40人のうち、僕ともう一人でしたね、一般入試で入って来た人間は。

僕が一番下手くそでした。当時の僕からしたら、みんな段違いにうまかった。対外試合前のアップでも、下手くそな僕がそのアップに一緒に入ると敵になめられるから、「おまえはロッカールームでユニフォームを畳んどいてくれへん?」って先輩に言われたりとか。

本当にチームメイトが当たり前にできることを、僕はそのときに初めて見た・聞いたぐらいのレベルの差だったので、練習ついていくのもやっとだし、「なんでこんなとこ入ったんやろう?」って、1年生の間は思ってましたね。

レベルがまったく違った段階から、みんなに追い着いたのはいつ頃でしたか?
試合にレギュラーとして出られたのは、最後の1年間、4年生のときだけだったんですよ。1年生のときはもう、箸にも棒にも引っかからない状態で、本当に雑用だけ。同級生が「櫛田はおれらに勉強を教えてくれ。その代わりにおれらがハンド教えたるから一緒に頑張ろうぜ」みたいなことを言ってくれて。

彼らは「おまえは左利きで背が高い。おれらが4年になったときにシュートをどんどん決められるようになってくれたらいいから」って言って、フットワークの練習とか、筋トレを一緒にやってくれました。

ごはん一緒に食べて「身体大きくしようぜ。いきなり20㎏太れへんけど、1年で5㎏とかやったら、月にしたらペットボトルのちっちゃいの1本分ぐらいやから一緒に頑張ろう」と。それで少しずつ、少しずつって感じです。

そして、4年の時に全日本の監督経験もある蒲生さんという方が僕らの監督に就任したんです。今まで同級生だけで、感覚的に身体作りや技術練習をやっていたんですけど、蒲生監督が来て、「こういうときはこういう役割があるんだ」とか「こういうときはこう守った方」がいいっていう戦術・戦略をすごくタイムリーに教えてくださったので、僕としてはグッと成長できた。今振り返ると、自分のハンドボール人生の最初の大きな成長期やったんかなと思いますね。



日本ハンドボールリーグ(男子)開幕直前!!!

[ 2013/2014 シーズン(北陸電力BT) ]

早いもので福井に移ってきて、ちょうど4年が経過した。2009年9月に移ってきたのが、ついこの前のようだ。来た頃はこんなにも長い間、この場所でハンドボールをさせて貰えるなんて思いもしなかった。

今週末から、いよいよ日本リーグが開幕する。女子は一足早く、先週末に開幕を迎えた。

9月に4試合、10月は東京国体を挟んで下旬に1試合、11月は毎週末のように5試合、12月は1試合そして年末に全日本総合、年明け1月は試合がなく、2月に5試合と例年になく試合数にバラツキがあるのが特徴だ。福井でのホームゲームは3試合、何故か佐賀でのゲームも3試合というのも面白い。

移動に関して言うと、日本は飛行機や新幹線を使っての移動が多く、大体が前泊なのでありがたい。ドイツにいた時のチームは、夜8時からの試合に朝バスで出発して8時間、9時間くらい揺られて、そのまま試合して試合が終わればそのまま帰ってくるなんて事がザラやった。年間の試合数が日本リーグよりも倍程の30試合前後あるので、こうして宿泊をせずに、当日バス移動することでコストカットしているんだと思う。高速道路も無料だし。

慣れるまでは、しんどかったけど(まあ慣れてもしんどいけど)やってるうちにこれが当たり前になっていったし、このチームバスには熱心なファンも一緒にツアー組んで乗ってきていたので、いいドイツ語会話の場になったりした。

勝てば帰りのバスは大宴会で、負けると最悪の雰囲気。それでも仕事をしていたドイツ人のチームメイトは往復のバス中でPC持参で仕事をしたり、試合から帰ってそのまま仕事に出たりしていた。ドイツ人以外の、ハンドボールだけで生活していた連中(チェコ人が多いが)は、勝っても負けてもビールが残っている限り飲み続けていた。

僕のいたチームは多国籍軍で、ドイツ人、チェコ人、ルーマニア人、セルビア人、そして日本人の僕がいた。学生もいれば(それでもハンドボールでの報酬はある)、仕事しながらの奴もいれば(それでもハンドボールでの報酬はある)、ハンドボールだけで生活しているプロの奴もいた。だからってプロが偉いとか、学生がアカンとかってことはなく、18歳の学生が30歳を超えたベテランに食って掛かることもあれば、プロの奴が経験を活かして、チームを勝利に導くこともあった。

よくその時のチームメイトに、日本の実業団とか部活いう仕組みについて質問された。当時のドイツ語ではうまく彼らに伝えられずにいたけど、彼らはどう解釈しているんやろうか。今の男子の日本リーグは8つの企業チームと1つのクラブチームで構成されている。基本的にホーム&アウェーの2回戦総当たりで勝点を取り合い、上位4チームが3月のプレーオフにコマを進める。そこからは一発勝負のトーナメント戦で日本一を決める。

欧州から見ると、一風変わって見えるかもしれない、企業チームとクラブチームが混在する日本ハンドボールリーグ(男子)がいよいよ今週末に開幕。ブルーサンダーに来て5シーズン目、コーチ兼任選手として挑む2シーズン目の日本リーグがいよいよ始まる。



ハンドボールスクール@相模田名高校

[ ハンドボールスクール ]

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9月1日。関東ハンドボールスクール編、2日目。

相模田名高校での青空ハンドボールスクール無事終わりました。

真っ黒にではなく、真っ赤に日に焼けたぜい。でも風が吹いてて室内より涼しかったなぁ。

ノーボールの3対3や3人1組ボール2球でのランパス等、やっている間にぐんぐん上達していくのには驚きました。

バックスピン、ジャイロスピンのボールの投げ方はみんな興味津々やったみたいです。

神奈川インターハイ出場に向けて、頑張って欲しいね。

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2日間サポートして下さったザムストの佐々木さん、蓼沼さん、山さん、トランジスタの東屋さん、高橋さん、ブルータグの今矢さん、ヒーローインタビューの小山編集長、本当にありがとうございました!!!

普段は書面や口答での活動報告なので、こうして現場を、生の子供達の笑顔を見にきてもらえて良かったです。